あなたにとっての「ひつじ」とは何ですか?
古来より人間は自然や神への感謝、あるいは償いとして生贄を捧げてきました。
特に宗教における信仰上の儀式には必ずと言っていいほど生贄というプロセスを挟みます。
多くの宗教でみられる生贄の文化は何故あるのでしょうか。
生贄として捧げられるものは地域によって様々であり...
湖畔、海に信仰をもつなら「魚」を
山に対する信仰ならば「獣」あるいはその骨を
神話を根拠とする強い信仰ならば少年・少女の「心臓」を
自然からの恵み、時には命あるものでさえ生贄として捧げる文化が世界中にあります。
「ひつじ」も多くの神話・宗教で犠牲として屠られ、それはもはや犠牲のイコンと言ってもよい存在です。
過越の羊、スケープゴート(アザゼルの羊)、「鮮」の漢字の由来(神に捧ぐ鮮なるものの代表として魚・羊を立てた漢字)...
おそらく挙げ切れないほど羊は生贄にされています
ひつじが生贄に選ばれる一つの理由として、ひつじの有用性が挙げられます。
古来バビロニアより羊は家畜化され、人々にとって大切な財産として扱われてきました
。(ひつじは衣(ウール)食(肉)住(フェルトによるゲル等)を支えることができる人にとって価値ある動物です)
生贄に選ばれるものの共通点の中に、「自分にとっての価値あるもの」を捧げるという点があります。神など目に見えない恐ろしい力を持つ存在に対する供物に手を抜くことは許されません。自らにとって価値があると認めるものを自らが選択して捧げることで生贄という儀式が成立します。ひつじを財産とする文化圏での生贄は、当然生贄の対象とする頻度も高くなります。
話がひつじに逸れましたが、私は生贄という行為は「自分にとって届かないものに対して、リスクを払うことで影響力を持つ」儀式なのだと思います。
たとえ生贄を払い、豊穣祈願しても不作の年になるかもしれません。逆に豊作の年になるかもしれません。その時に、
「するべきことはしたのだからこれでいい」と納得し、
「生贄を捧げたから豊作だったのだ」と、根拠として自らを納得させるための影響力を生むために、人々は生贄を行うのではないのでしょうか。
自己満足...といってしまえば簡単なのですが、たぶん皆目に見えない大きな力でさえ自分は影響出来るのだと思いたいのではないでしょうか。
宝くじやパチンコなど運の要素しかない出来事の結果でさえも、当たれば嬉しいと思い、自分の力で当てたのだと思いたがります。不慮の事故や病にあったときも何か原因を探ろうとします。
逆に努力して勝ち取った結果であれば、努力したのだという因果をすぐに見つけ納得できるのでしょう。
犠牲という言葉にはなにやら暗いイメージがついていますが、その言葉の裏にはそれを失い糧としたという意味合いが含まれています。
望む結果を得るためには犠牲が必要なのかもしれません。あるいは犠牲なくその結果が手に入ることもあるでしょう。しかし、犠牲を捧げることで間違いなく納得のいく因果を手に入れることが出来ます。犠牲なく得た幸運は誰の犠牲の上にあるものなのでしょうか。それに無自覚に生きていれば、知らぬ間に自分が誰かのための犠牲として捧げられることもあるのかもしれません。
あらゆる言葉そのものに善悪はないように「犠牲」もまた悪ではないと思います。
だからこそ、犠牲は尊い言葉だと私は思います。
羊飼いはひつじの犠牲の上で生活を立たせます。どんなに羊が大切でも羊は犠牲になります。大切だからこそ犠牲にするのかもしれません。漁師が命を賭けて取った魚を、農夫が手塩にかけて育てた穀物を、皆生きる為に、得る為に大切なものを犠牲にします。犠牲とは、得る為に大切に育んだ過程と、捧げる意志こそ見るべきであり、死の側面だけを見て残酷だとか、意味がないと評価するのは惜しい気がしてなりません。
日々生きる為に仕事をします。仕事は自分の時間を捧げて対価をもらいます。ですが時間だけを捧げて生きるならば、そこに熱は生まれません。自分にとって大切なものでなければ、たとえ貴重な時間でさえも「犠牲たる時間」ではないと思います。その時間に賭ける自分の美学や情熱がなければ、生きていてもあまり楽しくないのです。
私はひつじを調べるときが一番好きな時間です。私にとっての羊(価値あるもの)は羊です(笑)
あなたにとってのひつじとは何ですか??